小田川全之とは? わかりやすく解説

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小田川全之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/07 04:43 UTC 版)

小田川 全之(おだがわ[1]/おたがわ[2] まさゆき、1861年4月1日文久元年2月22日[1][2]) - 1933年昭和8年)6月29日[1][2])は、明治から大正時代の実業家古河財閥幹部。

経歴

幕臣・小田川彦一の長男として江戸に生まれる[3]。父は初め彦助と称し、御賄御膳役から1866年慶応2年)小筒組肝煎となり、明治維新を経て妻子を伴い沼津に移住した[4]1869年(明治2年)には生育方を経て、同年11月に郡方捕亡役となった[5]

全之は沼津兵学校付属小学校に入学し、同輩の真野文二田辺朔郎らと共に学び、同校が1873年(明治6年)1月に集成舎となってからは変則科に通学した[5]1874年(明治7年)同校を修了すると、父は印旛熊谷などに出仕し、全之はこれに従い、熊谷町の暢発学校で教鞭を執った[5]1875年(明治8年)東京英語学校(のち大学予備門と改称、第一高等学校、現東京大学教養学部の前身)に入り[5]1883年(明治16年)5月には工部大学校土木科を卒業した[2]

卒業後は、群馬県に出仕し、のち1886年(明治19年)まで東京府に務め、道路や橋梁などの建設に従事する[2]。ついで1887年(明治20年)から3年間、工務所を開設し民間土木事業を請け負った[2]1890年(明治23年)古河市兵衛の知遇を得て古河家に入り、足尾銅山の土木事業を指揮する[2]1897年(明治30年)からは足尾銅山鉱毒予防工事を担当し、1900年(明治33年)土木・鉱山事業の調査のため欧米を視察した[2]1903年(明治36年)古河本店(古河鉱業古河機械金属の前身)理事となり、1911年(明治44年)から1915年(大正4年)まで足尾鉱業所長を務め、1921年(大正10年)まで古河財閥の諸事業に関与した[2]。この間、1909年(明治42年)足尾鉄道を創立し社長に就任したほか[2]1921年(大正10年)古河銀行監査役に就任した[1]

学会歴としてはアメリカ鉱業会、土木学会、イギリス土木学会、電気学会の会員に列した[2]。墓所は多磨霊園

親族

脚注

  1. ^ a b c d 上田ほか 2001, 438頁.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 高橋、藤井 2013, 283頁.
  3. ^ 大野 1943, 81頁.
  4. ^ 大野 1943, 81-82頁.
  5. ^ a b c d 大野 1943, 82頁.
  6. ^ a b c d e f g 小田川全之『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  7. ^ 小田川全之歴史が眠る多磨霊園
  8. ^ 浜岡雄一『人事興信録』第13版下、1941
  9. ^ 森平蔵『工業人名大辭典』滿蒙資料協會出版部 1939
  10. ^ 小田川達朗『人事興信録』第10版、1934

参考文献




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