小池家継とは? わかりやすく解説

小池家継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 03:27 UTC 版)

 
小池家継
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:小池 刑部 藤原之家継
主君 森可成長可
氏族 小池氏
テンプレートを表示

小池 家継(こいけ いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士国人森氏森可成森長可)の家臣美濃国今城[1]家紋は「梅に鶯(うぐいす)」[2]天正10年(1582年)に起きた本能寺の変を機に金山城主の森氏への反抗を開始したが、鎮圧されて森氏の命により今城を退去し、帷子郷帰農した[3][2][4]

略歴

小池氏は現在の岐阜県可児市の南西部を支配していた国人家継の家系は鎌倉時代後鳥羽天皇北面武士であった小池貞利、小池貞好、小池貞宗らの系統といわれている。[要出典]

小池家継は天文年間(1532年-1555年)において愛宕山(あたごやま)に今城を築城した[3]。その後、森可成家臣となった後に森長可家臣となった。各々は順に森蘭丸の父と兄である。

織田信長は中濃平定戦のあと猿啄城家臣河尻秀隆に与え、烏峰城を森可成に与えた。森可成は入城に際し烏峰城を金山城と改称したという。そのほか、久々利氏大森城主奥村又八郎、塩河・室原の可児秀行(可児六郎左衛門秀行)、今城主の小池家継(小池刑部藤原之家継)らが織田信長に帰順したとされる[5]

天正10年(1582年)に本能寺の変が発生すると、いままで森氏に従っていた東濃の武将は反抗するようになった。家継も同調し反抗したが、すぐに鎮圧された。その後、森長可の立ち退き命令により今城を立ち退き、帷子郷帰農したといわれている[3][4]

現在の今城址は可児市「山城連絡協議会」有志らにより簡易な公園として整備され、誰でも容易に訪れることが可能である。

今城址はからに突き出た舌状台地上にあって、一辺が30メートル程の平地がある。北側の中腹に屋敷跡といい伝えられている平地(今城二の丸)があって、今城三の丸には五輪石(五輪塔)が数基あって小池氏の墓といわれている。その墓には小池家継の墓も含まれる[3]

今城址の近隣には小池家継の氏族(と予想される小池姓の集団)が居住しており、本家・分家の関係で細部は異なるものの殆どが「梅に鶯(うぐいす)」[2]の家紋を持っている。

脚注

  1. ^ 今城跡 | 戦国城跡巡り事業-可児市の乱-|可児市PRサイト”. 岐阜県可児市. 2022年3月12日閲覧。
  2. ^ a b c 今城跡城跡”. 可児市. 2025年2月10日閲覧。
  3. ^ a b c d 『可児町史 通史編』可児町、1960年2月1日、214頁。 
  4. ^ a b 歴史番外編/道着&防具無料で月3500円から!伝統空手の武禅館多治見道場/岐阜県多治見市、伝統空手、空手、フルコンタクト空手、総合格闘技”. buzen-tajimi.sub.jp. 2025年1月8日閲覧。
  5. ^ 金山城跡発掘調査報告書”. 奈良文化財研究所. 2025年1月3日閲覧。

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小池家継」の関連用語

小池家継のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小池家継のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの小池家継 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS