家紋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:14 UTC 版)
治承・寿永の乱(源平合戦)の時、児玉党(武蔵七党中最大の武士団)は軍旗に「唐団扇」を描いたが、これはのちに「軍配団扇紋」となる(『源平盛衰記』に児玉党の軍旗について記述がある)。すなわち、武家家紋としては最古級の歴史を持つものである(文献史料上においては)。この軍配団扇紋の団扇模様は分家(土地)によって異なる。武家家紋は敵味方の識別や家示が目的とされるが、生じた当初は、大きな武士団をまとめ、結束力を高める為に生じたと考えられる(領地を分家に与え、分家は土地名を名乗り、そして家紋もアレンジする)。 伝承上では、児玉党本宗家2代目である弘行が後三年の役に参戦し(別伝承ではその父・党祖惟行となっている)、その軍功により、源頼義から団扇を賜った事から、以後、団扇を家紋に用いる様になったとしているが、弘行が後三年の役に参戦していたという確証がない。後世において、奥州後三年の役絵巻には、本来、弘行が名が書かれていたが、別の武家が書き直したとする主張はあるものの、確かめようがない。
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