安蘇郷説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 05:52 UTC 版)
円仁が開山したとされ関わりの深い立石寺(山寺)は、円仁が故郷名を付けたとされる阿蘇郷にあった。山寺の前を流れる立谷川の古名が阿蘇川(阿所川)であり、立石寺の正式名称は宝珠山阿所川院(あそかわいん)立石寺である。1688年(元禄元年)の下野風土記には『阿蘇川原並美加保乃関』とある。 烏丸光広の『日光山紀行』には「佐野を一里ばかり行きて、盥窪と云ふ所あり。慈覚大師生湯浴みたまふ故とかや」とあるが、佐野から一里は山の西側、犬伏から一里が山の東側にあたる。元和3年(1617年)、家康の遺言に従い、その棺を久能山から日光へ移した際、朝廷の名代役をつとめていた光広は例幣使として再び日光東照宮に参拝し、その帰途太田(現在の栃木市藤岡町太田)を訪ね、「はるばると尋ね太田の八重一重塚も名高きさくら木の里」の歌を詠んでいる。白兼の桜は、別に「太田のにほい桜」とも伝えられ、太田字白兼、二柱神社裏にある。
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