安南・越南
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 07:49 UTC 版)
ベトナムでは李朝の英宗時代の1174年以降、その君主が中国王朝から「安南国王」として冊封されていたが、同時に「大越」の国号を称し、国内的には皇帝を自称していた。その後、陳朝時代のモンゴル帝国(元朝)との戦争、明朝による短期間の支配とそれからの独立などを経て、ベトナムは「南国」として中国(「北国」)と対等な地位に立つ文明国であるとする自意識が形づくられるようになった。また同時に、シャム・チャンパ・ラオス・カンボジアなど近隣諸国家・民族よりも文化的に一段高い位置にあり、これらを藩属として従えるべきであるとの小中華思想も成立した。 以上のような対外認識は阮朝の明命帝時代に体系化され、ベトナムを中国すなわち「北朝」に相対する「南朝」と呼び、その君主は中国皇帝と同様に「天子」「皇帝」を称し、国内での勅令、および、中国以外の外国使節(フランスなどヨーロッパ諸国を含む)との接見においては「大南国大皇帝」の称号を使用していた。しかしその一方で阮朝は中国(清)からは「越南国王」としての冊封を受けていたため、北京に派遣されたベトナムの使節は国王の代理人として、中国皇帝の前で跪く儀礼をとった。だが国内向けの文書では中国との国交を「邦交」と称し、対等外交であることを暗に示唆した。
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