呑竜
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呑竜(どんりゅう、弘治2年4月25日(1556年6月2日)[1] - 元和9年8月9日(1623年9月3日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗の僧。字は故信、源蓮社然誉。武蔵国埼玉郡一ノ割村[2]の生まれ。
概要
岩槻城主太田資正の家臣・井上信貞の子[1]。14歳の時に故郷の林西寺の岌弁(きゅうべん)に師事して出家し、その後江戸芝増上寺で修学した。やがて、武蔵国多摩郡八王子にある大善寺(浄土宗関東十八檀林の1つ)の3世となり浄土宗檀林(浄土宗僧侶の養成所)の基礎固めを行った。1613年(慶長18年)徳川家康の命により上野国太田に大光院が建立され、呑竜はその開山となった。1616年(元和2年)、孝心のため国禁を犯した子をかくまい幕府から譴責されたが、5年後の1621年(元和7年)に赦免された。このことから、子育て呑竜の異名で呼ばれるようになった。
脚注
- ^ a b 『上毛大観』歴史図書社、p.239。
- ^ 「大光院と呑龍上人」 - 太田市ホームページ
関連項目
外部リンク
- 「大光院と呑龍上人」 - 太田市ホームページ
- 「どんりゅう上人の話」 - 佐野市立図書館ホームページ
- 「分身本物説」 - 桐生の民話ホームページ
- 「六道地蔵と呑竜地蔵」 - 田上町ホームページ
子育て呑龍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 18:49 UTC 版)
呑龍は当時、多くの子どもが間引かれて殺されていたことを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から子育て呑龍と慕われた。「上毛かるた」では、「お」の札に「太田金山 子育て呑龍」として採録されている。
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