女子教育者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 10:18 UTC 版)
亮一は立教大学在学中に、創立者・チャニング・ウィリアムズ聖公会主教と深い師弟関係を築いて、その教えに感銘を受けた。そして受洗し、キリスト教徒となる。卒業後、留学のための身体検査でまたしても不合格となり、結局、留学を諦めざるを得なかった。亮一は、母校の付属校であった立教女学校に奉職することになり、教諭に就任。その後、まもなく24歳で教頭に就任して、学校改革に勤しんだ。 教頭在職中、濃尾大地震が発生する。被災地で親を失った多数の孤児が発生し、その中でも少女たちが人身売買の被害を受けていることに大きな衝撃を受ける。「女子に性の尊さを知らせずして何が女子教育だ」と義憤を感じ、急遽、現地に出張。現地で岡山孤児院の石井十次と合流し、ともに孤児の救済にあたった。 被災地で保護した20名余の女子の孤児(孤女)を引き取って、私財を拠出し、聖公会からの義援金を加え、荻野吟子女医の自宅を借り受けて、聖三一孤女学院を開設し、孤女を収容し、彼女たちへの教育を開始した。学院は幼稚園、小学部、高等女学校部を設置して、孤女の教育に精励した。1891年のことであった。
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