太郎右衛門の渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 01:30 UTC 版)
この場所には橋ができる前には私設の渡し場があり、その運営者の名前が後の木製の橋(板橋)の名前となった。この渡しについては人渡し馬渡しそれぞれ一艘で渡船二艘を有する中山道の桶川宿と川越を結ぶ川越道に属する交通路で、渡船料は1889年(明治22年)当時は徒歩は1人で三厘、荷馬は1疋で八厘であった。また渡船場には江戸時代の末から大正時代にかけて太郎右衛門河岸(川田谷河岸とも呼ばれた)が併設されていた。1764年(明和元年)に発生した中山道伝馬騒動(明和の伝馬騒動)の際には三保谷村にて結集した一揆勢が桶川宿へ向かう際にこの渡船場付近で荒川を渡った。最初にこの場所に橋が架けられた年代は定かではないが明治末期には既に架けられていたもので、大水によって橋が度々流失する被害にあったと言われている。橋は木造板橋で、通行料を徴収する賃銭橋であった。なお、渡しはこの板橋が架けられた後も使用は継続され、1940年(昭和15年)頃に冠水橋が架けられた後に廃止された。
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