太郎八神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 03:15 UTC 版)
幸周の死から2年後の明治13年(1879年)、太田新田では生前の恩徳を敬慕し、神様として祀ることになり、福田家所有の山林を切り開き、切芝を積み上げて桧の木標に「太郎八大明神」と謹書して建立、祭壇を設けてお祭りを執行した。その後明治25年、白木桧造りで金具が光る社殿が造営されたが、この費用は福田家から寄進された。現在の拝殿は、明治34年に建立されたものだが、当時の太田新田住民56戸で54円30銭を募り、経費100円の不足分は福田家が負担した。 明治44年春、当時太田新田部落内にあった洲原神社、秋葉神社、津島神社を境内に合祀した。合祀記念として福田家よりお手鉢(石造)が寄進され、大正9年4月には真野氏(福田家番頭の末裔)より鳥居が、翌10年9月にも狛犬一対が寄進され、「太郎八神社」となり、大正12年4月2日、村社に昇格した。 祭礼は、村社に昇格する前は幸周の命日である9月16日を祭日として質素でありながら真心のこもった祭典が挙行されていたが、大正元年(1912年)、幸周が奨励してきた養蚕業のために10月16日に変更され、村社昇格後は本格的な祭典行事が執行されるようになった。
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