天狗党越えたる山の眠りをり
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
冬 |
出 典 |
赤い車 |
前 書 |
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評 言 |
水戸藩は、明治維新に大きな影響を及ぼした藩である。 1864年3月、藤田小四郎(藤田東湖の子)は、水戸町奉行田丸稲之衛門を総帥にして筑波山に尊皇攘夷の兵を挙げた。天狗党筑波山事件である。これに対して水戸藩内では、幕府の後押しで討伐を主張する諸生派と天狗党を擁護する武田耕雲斎を筆頭とする尊皇攘夷派の勢力争いとなった。 同年10月、武田耕雲斎が党首となった天狗党は苦戦敗退を繰り返し、那珂湊部田野原(現ひたちなか市)で最後の決戦に破れ、常陸大子の月居峠(茨城と栃木の境)を経て下野(現栃木県)に敗走し京を目指した。しかし、頼みとした一橋慶喜が討伐に動いたことを知り、越前加賀藩に投降し、翌年全員が処刑された。大政奉還の2年前の事である。 掲句は140年前、指物旗を背に月居峠を敗走する天狗党隊の姿を想い描きながら、袋田の凍滝を背に、何も無かったように眠る冬枯れの月居峠を眺めている。 明治維新に大きな影響を与えた天狗党の戦い、その歴史を踏まえながら、天狗党の地元ならではの哀切を彷彿とさせる。 作者は、協会理事で前茨城県現代俳句協会会長の梅原昭男氏。戦いに敗れた天狗党の首塚が今も氏の故郷に丁重に祀られている。それは天狗党の多くが郷士の子弟であったことからも頷ける。 |
評 者 |
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備 考 |
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