大映と東急の合同
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:48 UTC 版)
東京急行電鉄は1947年にセネタースを買収してプロ野球に参入したものの、赤字経営により球団首脳は売却を検討していた。一方、大映は赤嶺軍団を中心として1948年1月10日にチームを結成。連盟に加入を申し入れたものの拒否されてしまった。この時東急が球団を手放したがっている情報を得た永田雅一は東急ベースボール倶楽部社長の猿丸元に球団買収を申し入れ。猿丸は東急本社の役員会議で了承を得ようとしたが、取締役経理部長だった大川博が異議を唱え、売却は流れてしまった。 しかし、東急は傘下の東横映画の設立に当たって撮影所や機材等の面で大映の協力を得るなど多大の借りがあることから球団経営に参加することまでは拒むことが出来ず、その結果1948年2月20日に東急ベースボール倶楽部は「東急大映野球」と改称。チーム名も「急映フライヤーズ」となった。
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