多色摺の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 08:57 UTC 版)
明和2年(1765年)頃、裕福な俳諧人たちの間で、当時、大小といわれていた絵暦を交換する会が流行した。そのなかに大久保巨川、阿部莎鶏、薬種商の小松屋百亀らがおり、彼らは金に糸目をつけずに摺りの技術を開発していった。このころは太陰暦を使用しており、その年のうち、30日ある月を大の月とし、29日しかない月を小の月として、判じ絵のように表した摺物を制作し、仲間同士でその趣向を楽しみ、交換しあう会が開かれていた。なお、およそ3年に一度、閏月があり、この組み合わせは一定ではなかったため、その年の大小月を表した暦が配られたのであった。そのうち、より贅沢で華美な摺物を求めてゆくなかで、版元が鈴木春信、礒田湖龍斎ら本職の浮世絵師たちにその作画を依頼、彫師や摺師もそれに応じるように飛躍的に技術が向上、多色摺木版画が発展していった。明和3年(1766年)の前半にはこの絵暦交換会の流行は収まっていったが、美麗な摺物に着眼した版元は、注文者の名前などを削除、これらを「東錦絵」または「吾妻錦絵」と称して売り出したのが、錦絵の始まりであった。この錦絵という名称は、従来の紅摺絵などの浮世絵版画と比べて、まさに錦織物のような美しさを誇っていたことによる。使用する紙も、より上質な奉書紙になり、顔料に胡粉を入れた中間色も用いられ、微妙な色調も表現できるようになり、これ以降、錦絵の全盛期を迎えることとなった。また、版木には良質の桜、朴が用いられるようになった。
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