八月十八日の政変
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八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期の1863年9月30日(文久3年8月18日)に発生した政変。
注釈
- ^ 西郷隆盛(吉之助)は下関で待機する命を受けて先発したが、久光を待たずに伏見に上り過激派の企てを止めようとしたため、君命に背いたとして捕縛され、徳之島さらに沖永良部島に遠島となった。西郷が赦免召還されたのは、政変の翌年、元治元年(1864年)2月である。
- ^ (1)将軍が諸大名を率いて上洛し、攘夷について朝廷と協議する、(2)沿海5大藩主(薩摩・長州・土佐・仙台・加賀)を大老として幕政を担わせ、攘夷を行わせる、(3)一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を大老とするという内容で、(1)案は長州の主張、(2)案は雄藩のバランスをとるもの、そして(3)案が薩摩の主張であった。
- ^ 幕府は外様藩による首脳人事への介入を快く思わず、談判は難航したが、大久保利通が交渉不調ならば老中殺害も辞さない姿勢を示したことが勅使から老中脇坂安宅・板倉勝静に伝わるとまとまった。
- ^ 藩主ではなく無位無官の久光は、正式の参内はできず禁裏奥向での内々の対面だったものの、御剣を下賜された。前例のないことだったが、天皇のたっての希望により「参内」ではなく関東の事情を聞くためという名目で実現した。
- ^ 岩倉と久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人が佐幕の「四奸二嬪」として弾劾された。
- ^ 実美の母方の祖父は山内豊策。山内豊範は実美の従弟。
- ^ 攘夷派・一橋派として活動。梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎などとも交流する。刺客は土佐勤王党の岡田以蔵で、大学が安政の大獄で重い処分を受けなかったのは井伊直弼と裏で通じていたからとの誤信によるとされる。
- ^ 「征夷将軍之儀、惣而此迄通御委任被遊候、攘夷之儀、精々可尽忠節事」。
- ^ 「征夷将軍儀、是迄通御委任被遊候上は、弥以叡慮遵奉、君臣之名分相正、闔国一致奏攘夷之成功、人心帰服之処置可有之候。国事之儀に付ては、事柄に寄り直に諸藩へ御沙汰被為在候間、兼而御沙汰被成置候事」。
- ^ 5月26日には禁裏六門の警備が、会津、長岡(京都所司代)、芸州、米沢、中津の5藩に命じられた。
- ^ 島津斉彬・松平春嶽・山内容堂とともに「四賢侯」と呼ばれた旧一橋派の有志大名。
- ^ その後、越前藩の上洛計画を推進した人々は処分され、立案者の横井小楠も肥後に去ることになった。いっぽう、薩摩と越前の上洛を非常に警戒していた攘夷親征派は、これを阻止すべくさまざまな活動を行っており、計画中止後の7月27日にも越前の宿舎に予定されていた高台寺に放火した。
- ^ 藩主小笠原忠幹の官位と所領15万石を没収。ただし、跡目相続の者に旧領のうちから3万石を与える。
- ^ 薩摩本国の島津久光・大久保利通の指示を受けて進められたと見る説と、高崎の判断で進められたと見る説とがある。
出典
- ^ 『日本歴史大系普及版12:開国と幕末政治』大久保利謙編、山川出版社、1996年、149、150頁。
- ^ 維新史料編纂会 講演速記録. 第1-5輯「文久三年八月政変前後の事情 / 蜂須賀茂韶」
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