堺政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:40 UTC 版)
「細川政権 (戦国時代)」の記事における「堺政権」の解説
「堺公方」を参照 大永6年(1526年)、又従兄弟に当たる丹波の守護・細川尹賢の讒言を信じた高国は、重臣の香西元盛を誅殺してしまった。これにより、元盛の兄弟である波多野元清や柳本賢治らは細川六郎(澄元の嫡男、後の晴元)や三好元長(之長の孫)と通じて高国に反乱を起こした。これに対して高国は波多野討伐を実行したが、内藤国貞らの反抗もあって失敗する。大永7年(1527年)2月には桂川原の戦いで波多野・三好軍らに高国は敗れて将軍・足利義晴を擁して近江に逃亡した。六郎達は義晴の兄弟に当たる足利義維を擁立、仮政権・堺幕府を樹立した。 享禄3年(1530年)5月、高国に代わって京都で権勢を振るっていた柳本賢治が家臣の中村助三郎によって暗殺された。これを機に高国は再び京都復帰を果たしたが、享禄4年(1531年)3月には摂津中嶋の戦いにおいて三好元長に敗れ、6月4日の天王寺の戦い(大物崩れ)でも元長に敗れて捕らえられ、6月8日に自刃に追い込まれた。こうして高国政権は崩壊したのである。
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