坂本と青木繁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 21:48 UTC 版)
青木繁とは、同じ久留米の出身で、生年も同じことから、比較されたり、並べて論じられることが多い。文学青年で浪漫派だった青木に対し、坂本には学者肌のところがあり、優れた絵画論をいくつも著している。 上述のように、坂本が上京を決意したのは1902年(明治35年)のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であった。幼児から「神童」と持てはやされていた坂本は、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から、上京を決意したとするのが通説である。同じ1902年(明治35年)の11月から12月にかけて、坂本、青木繁および同郷の画学生・丸野豊の3名は連れ立って群馬県妙義山・信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。青木が1911年(明治44年)、満28歳で死去すると、坂本は青木の遺作展の開催や画集の刊行のために奔走した。 坂本にとって青木は無二の親友であるとともに、終生その存在を意識せざるをえないライバルであったようである。坂本の死後、遺品のなかからは青木が画学生時代に描いたスケッチ等の未発表作品60数点が発見された。坂本がこれら青木作品の存在を誰にも知らせず、数十年に亘って秘蔵していた理由は明らかでなく、さまざまな推定がなされている。
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