地域戦争への発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:13 UTC 版)
「ジェマイティヤ蜂起」の記事における「地域戦争への発展」の解説
ドイツ騎士団がリトアニアへの侵攻をちらつかせてポーランドを脅迫すると、ポーランドはミコワイ・クロフスキ枢機卿を通じてリトアニア支援を表明し、逆にプロイセン侵攻をちらつかせて騎士団を脅かした。1409年8月、騎士団はポーランドに宣戦布告し、ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争が勃発した。ドイツ騎士団は各個撃破を狙い、まずポーランドに侵攻した。ここで神聖ローマ皇帝ヴェンツェルが仲介して、1409年9月8日に停戦が結ばれた。この停戦は1410年6月24日まで守られ、その間ポーランドとリトアニアは平穏だった。しかしドイツ騎士団は大きな脅威となったポーランド・リトアニア合同の解体を目指しており、ヴィータウタスにリトアニア王位の復活まで提案した。1410年夏、ヴィータウタスとヨガイラは連合して軍事行動を開始した。彼らは中世ヨーロッパにおいて特に規模の大きかった戦闘の1つであったグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団に勝利した。しかし勝者となった2人はこの勝利を充分に生かせず、広範な領土を獲得することはできなかった。1411年に第一次トルンの和約が結ばれ、ジェマイティヤはヴィータウタスとヨガイラの存命中という条件付きでリトアニア領となった。その後もポーランド・リトアニアとドイツ騎士団は飢餓戦争(1414年)やゴルフ戦争(1422年)など短期間の戦争を繰り返し、最終的に1422年9月27日のメウノ条約で、ジェマイティヤがリトアニア領となることで決着した。
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