在サルデーニャ公使
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「ウィリアム・ナッソー・ド・ザイレステイン (第4代ロッチフォード伯爵)」の記事における「在サルデーニャ公使」の解説
1748年3月30日にエセックス海軍次官(英語版)に任命され、翌年に在サルデーニャ特命全権公使(英語版)に任命され、妻とともに1749年9月9日にトリノに到着した。 ロッチフォード伯爵は公使としてサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世の信任を得ており、1752年のアランフエス条約締結や七年戦争におけるサルデーニャの中立はロッチフォード伯爵の功績だったとされる。またサルデーニャ宮廷でイギリスのカントリー・ダンスが流行する理由にもなった。 公使在任中にイタリア諸国の宮廷を訪れ、1753年春にはローマに滞在した。翌年に一時帰国の許可を得て1754年4月26日にドーヴァーに上陸、9月5日にハリッジ(英語版)から出航してサルデーニャに戻った。その数か月後に在フランスイギリス大使の第2代アルベマール伯爵ウィリアム・ヴァン・ケッペルがパリで急死すると、ロッチフォード伯爵は召還され、1755年2月に15日間かけてトリノからバークリー・スクエア(英語版)に戻った。
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