土肥経平について
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土肥家は岡山藩池田家中において五千石近くを領する屈指の門閥家臣であったが、経平は58歳の時、藩主への諫言もしくは朝鮮通信使の対応において不法があったとして蟄居謹慎に処せられ、これが『備前軍記』編纂の元となった。経平は大安寺の別邸竹裡館に移って宇治山人と号し、天明2年(1782年)10月20日に76歳で没するまでの18年間、著作に専念した。また、娘が五条為璞に嫁いだ縁で、京の公家と交際して様々な文書を閲覧し、筆写することができたのも経平の文芸活動に資した。その成果は『備前軍記』だけでなく、『鎧直垂考』『本町細馬考』など武器・武装に関する書から、『備前名所記』『備前国仇討記』などの歴史・地誌、和歌まで数十冊に及ぶ。 同じ岡山藩士で『常山紀談』を記した湯浅常山も、経平同様に明和6年(1769年)に藩主の勘気を蒙って蟄居した身であり、2人は親しく交流して論じた記録を『湯土問答』にまとめている。
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