土崎の米騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 08:25 UTC 版)
雄物川の河口にあった土崎湊は、久保田藩の物資集散地としてにぎわっていたが、1833年(天保4年)は、久保田藩が大凶作となり、土崎湊近辺の村々からも雄物川流域からも米がなかなか集まって来なかった。久保田藩は蔵米の払い下げを行うものの、8月には平年の7倍程度の米価となった。 8月18日、土崎湊では「米よこせ」運動が始まった。中心となったのは農村から来た仲仕(荷役人夫)であった。800人程度が米を要求して、町の豪家や豪商に押しかけた。この集団は夕方頃に町役人と久保田からの応援の役人によって解散させられた。この日、藩の首脳は協議の上、一軒ごとに人数、年齢、職業を調査して、決められた量の米を配給することに決定した。この手法は後に仙北地方で施行された「家口米仕法」の始まりとなる。
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