嘘の噴火記録と大地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 03:24 UTC 版)
「寒風山 (秋田県)」の記事における「嘘の噴火記録と大地震」の解説
寒風山は1810年に噴火した、という江戸幕府に提出された文書が残っている。しかし、この文書には被害や噴火の詳細がまったく書かれておらず、噴火の堆積物も見つからないため、農作物の被害を水増し申告するための布石として、江戸の久保田藩邸において創作し、江戸幕府に提出したものと考えられている。 ただ、1810年には大地震が寒風山付近で発生している。この年、5月頃から鳴動があり、8月始めからは八郎潟の水の色が変化し、ボラが多く死亡した。7月中旬頃からは地震が頻発し、8月25・26日頃には日に70回程度の地震が起きていた。9月25日にはM6.5と想定される大地震が発生した。寒風山を中心に被害が発生し、山崩れが多く地割れより泥が噴出した。被害は死亡者が57名(163名とも)、負傷者116名、全壊1,003棟、半壊400棟、大破387棟、焼失5棟(『北家御日記』)であった。男鹿市北浦の温泉湧出が止まり、八郎潟の西岸の松木沢と払戸間が約1 m隆起した。現能代市の浜浅口と黒岡両村で全壊6棟であった。寒風山の山頂付近の地震塚には「変死亡霊供養塔」が建てられた。 菅江真澄はこの地震を滝川村で経験し、大地震前後の詳細な状況を『牡鹿の寒かぜ』に記録し、大地震直後の寒風山東麓を巡っている。
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