反孫文の活動
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林虎は、1916年(民国5年)4月に岑春煊が肇慶で成立させた両広護国軍都司令部に加入し、護国軍第6軍軍長に任命された。そして、陸栄廷に従って広東将軍竜済光の討伐に貢献した。同年9月、林は高雷鎮守使に任命されている。 翌年、林虎は陸栄廷から広東陸軍第2軍軍長に任命された。そして、同年11月からの竜の反攻に対処し、1918年(民国7年)春、竜の軍を撃滅した。この功績により、林虎は肇羅陽鎮守使に任命されている。 同年10月、広州軍政府が改組されて7総裁による集団指導制となると、岑春煊・陸栄廷ら旧広西派(旧桂系)が主導権を握り、林は軍政府陸軍部次長に就任した。しかし1920年(民国9年)、孫文を支持する陳炯明軍により旧桂系は敗北し、林も下野した。なおこの時、林虎は孫文からの内応の誘いを蹴っている。 以後も反孫文の活動に従事し、1922年(民国11年)には、孫文に反した陳炯明を補佐して北京政府との連携工作に従事した。1924年(民国13年)5月には、北京政府から広西督弁にも任命されている。しかし1925年(民国14年)、陳炯明は中国国民党の東征を受けて壊滅し、林も軍を撃破されて下野した。
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