厳島神社本殿立て籠もり事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 07:55 UTC 版)
「和智誠春」の記事における「厳島神社本殿立て籠もり事件」の解説
摂受坊に監禁された誠春と元家は密かに脱出する機会を窺っており、監禁から半年ほど経った同年12月16日、和智氏の家臣1人の手引きで番衆の油断に乗じて摂受坊を脱走し、厳島神社本殿に立て籠もった。誠春らの立て籠もりにより厳島神社の儀式祭礼が行えなくなってしまったことを憂慮した元就は、近臣の熊谷就政を厳島へ派遣。この時、御使として豊前国へ赴いていた児玉元村も応援のために帰国した。そして永禄12年(1569年)1月24日、熊谷就政が厳島神社の回廊に潜入し、隙を突いて誠春を組み伏せ、児玉元村と協力して討ち果たした。誠春が討たれたと知った元家と家臣も観念して出頭し、社頭において誅殺された。 誠春の子・元郷は既に起請文を提出して隆元の死とは無関係と元就に認められていたため和智氏の存続を許されたが、弟・元家の子(誠春の甥)の柚谷実義は元就に抵抗したため滅ぼされることとなる。 『陰徳記』によれば、誠春と元家は誅殺後に怨霊となって諸人を悩ましたため、厳島の島民は怨霊を宥めるために、一宇の社檀を建立して神として祀ったという。
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