南水北調の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 09:38 UTC 版)
古くから中国の北は水が少なく、そのために北では小麦が、南では水稲が主食だった(北麦南稲)。昔の交通手段も「南船北馬」と言われる如く北は馬が中心であるが南は船が中心だった(秦嶺・淮河線)。 1952年10月30日に毛沢東は“南方水多,北方水少,如有可能,借點水來也是可以的”(南方は水が多いが、北方は水が少ない。できるのであれば、南方の水を借りればよい)と大胆な構想を発表した。 それ以来、中国政府は多くの専門家を集めて50年間にわたり調査・研究を行ってきた。数々の案を検討・議論した結果、南水北調は長江の上流、中流、下流からそれぞれ取水し、西北地区と華北地区の各地に引水する東線、中央線、西線の3ルートの案を決定した。2002年12月27日、当時の国務院総理朱鎔基によって着工を宣言された。
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