千駄ヶ谷の溶接学校跡地に建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 04:57 UTC 版)
「日本共産党中央委員会」の記事における「千駄ヶ谷の溶接学校跡地に建設」の解説
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により合法化されるとまもなく、日本共産党は現在と同じ場所にあった木造2階建てに「日本共産党中央委員会」の看板を掲げ、本部を構えた。「旧本館」と呼ばれる。この建物はもともと映画館だったが、1936年に職業訓練施設・東京高等電気溶接学校の校舎となり、戦中は落下傘を縫製する軍需工場としても利用された。電気溶接学校は1945年3月の東京大空襲で閉校し、建物は所有者で党員の岩田英一(戦後は准中央委員や東京都議会議員などを歴任。後に除名)が党に寄付したのである。土地は国有地であったが、のちに大蔵省から払い下げを受けて党の所有となった。旧本館は当時としても手狭で、古い木造建築であったため、長期にわたって改築と建て増しが繰り返された。戦後初期には機関紙印刷をになう「ヒカリ印刷」(現「あかつき印刷」)工場を党本部の横に建設し、続いて赤旗編集局が入居する2階建の建物が増設された。
※この「千駄ヶ谷の溶接学校跡地に建設」の解説は、「日本共産党中央委員会」の解説の一部です。
「千駄ヶ谷の溶接学校跡地に建設」を含む「日本共産党中央委員会」の記事については、「日本共産党中央委員会」の概要を参照ください。
- 千駄ヶ谷の溶接学校跡地に建設のページへのリンク