北魏・北周
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 17:52 UTC 版)
武川鎮とは北魏前期の首都の平城を北の柔然から防衛する役割を持っていた6つの鎮のうちの一つのことである。北魏では各国境に匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)、その上に鎮将を置き、彼らに当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた。他の地域の鎮は北魏の中央集権化が進むと共に廃止されるが、六鎮のみはそのまま残され、ここの鎮民たちは選民として特別待遇を受けていた。 しかし北魏の漢化政策が進むにつれてこの六鎮の地位も下落し、孝文帝により洛陽に遷都されたことで、六鎮はほとんど流刑地同然になった。この待遇に対し六鎮では不満を抱く者たちが続出し、六鎮の乱が起こると北魏は大混乱に陥る。 六鎮の乱は爾朱栄により収められるが、北魏の混乱はそれだけでは終わらずに軍閥の割拠状態となる。この戦乱を勝ち抜いたのが、六鎮の一つ懐朔鎮出身の高歓と武川鎮出身の宇文泰である。高歓と宇文泰はそれぞれ皇帝を擁立し、北魏は高歓の東魏と宇文泰の西魏に分裂する。宇文泰は武川鎮出身の者たちを集めて軍団を作り、西魏の支配集団を武川鎮出身の者で固めた。西魏の支配地は現在の陝西省と甘粛省であったので、このことから武川鎮軍閥のことを関隴集団(関隴貴族集団)とも呼んでいる。関は関中(陝西省)のことで、隴は隴西(甘粛省南東部)のことである。 宇文泰は東魏に対抗するために府兵制を創始し、その軍を編成して十二大将軍・八柱国をその指揮官とした。大将軍・柱国には武川鎮出身者を就け、これが西魏とそれを受け継いだ北周の支配者集団となる。その人員については後述の#柱国・大将軍を参照。 (北周末期より貴族化が進み、軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、これ以降は関隴集団と呼びかえる。) 赤は婚姻を表す。丸数字は北周、漢数字は隋、ローマ数字は唐それぞれの系譜を示してある。
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