初夢につかみて声のやうなもの
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評 言 | 夢などというものは、そう簡単にとらえられるものではない。夢とは、意識に押し寄せる身体の声であり、外部世界や過去につながる混沌からの情報である。意識は、その混沌から疎外されるようにして生まれ出た機能であるから、意識が夢の意味を取り逃がしてしまうのはしかたのないことだ。夢をとらえることは、自己をとらえることになるのだが、覚醒の後に夢を顧みるのはいつも意識であるから、その解釈は、たいていの場合、的はずれに終わるのである。 だが、作者は、「夢」に何かを「つか」んだと言う。それは「声」のようなものであった、と。この漠とした言いようは、作者が「夢」をとらえることの難しさをよく知った人であるからだろう。ならば、我々は、その人の言うことを信じることができる。 「つかみて」と言うからには、その「声」が、自己を支える力を持つ何ものかであったということだろう。作者の意識に、虚子の「棒のごときもの 」があったかどうかは不明だが、虚子の「棒」よりもはるかに力強く、この「声」は、作者や読者を力づけるように思える。例えばそれは、「指輪物語」の指輪の声のように強靱に、しかもポジティブに作者に語りかけたのである。生きることの根源において、自分という存在を支える何ものかを作者は夢に知ったと言っているのであるから、これ以上の「初夢」はあるまい。 <写真も筆者による> |
評 者 | |
備 考 |
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