出家騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
家臣団の内部抗争、国人層の離反、信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信(当時は長尾景虎)は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界に入っていくようになった。弘治2年(1556年)3月23日、家臣団に出家の意向を伝え、6月28日には春日山城を出奔、高野山を目指した。しかし8月17日、大和国の葛城山山麓の葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思い止まった。謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出したことで騒動は治まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている。 この当時、本庄実乃・上野家成派と大熊朝秀・下平吉長派に分かれて家中を二分する対立が起こっており、蘆名氏や武田氏を巻き込んで越後国は騒乱状態にあった。この出家騒動以後、家臣団のほとんどは引き続き謙信に臣従したが、大熊朝秀はこれを機に越後を出奔、武田信玄の許に逃れて以降は武田氏に重用されている。
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