内野町との合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 19:33 UTC 版)
「新潟市の行政区域の変遷」の記事における「内野町との合併」の解説
内野町では、依然合併をめぐる内紛が続いていた。内野町議会で多数を占める合併推進派は、町議会で新潟市との合併を決議しようとした。これに対し、商店街などの反対は激しく、町議会は収拾が着かない状態になった。 1955年(昭和30年)、町長と町議会議員が改選。町議会議員全員が合併推進委員となって新たに近村合併の方針を打ち出したが、1957年(昭和32年)になって内野町、中野小屋村、升潟村、赤塚村の4町村が一団となり、新潟市と合併するという案が出てきた。1957年(昭和32年)3月、新潟県は内野町の一部を新潟市と合併し、残りの内野町と赤塚村、中野小屋村の一部で新しい自治体をつくるよう勧告した。この後、内野町では全町で新潟市と合併しようとする動きが強まり、1958年(昭和33年)2月、町議会は新潟市への合併申し入れ議案を可決した。しかし、新潟市は県の計画があることと、町内に反対があることなどから合併申し入れの受諾を渋った。 1959年(昭和34年)3月、県はこの地区の合併計画を新潟市、内野町、赤塚村、中野小屋村の一部を合併に再び変更。これにより、内野町は町議会で新潟市との合併を満場一致で議決。さらに1959年(昭和34年)4月の統一地方選挙後の内野町議会も満場一致で合併を決議し、5月18日、新潟市長と新潟市議会議長に正式に合併を申し入れた。内野町は1960年(昭和35年)1月11日に新潟市と合併し、長期間、混迷を続けた内野町合併問題は解決した。
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