内田清之助とは? わかりやすく解説

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うちだ‐せいのすけ【内田清之助】

読み方:うちだせいのすけ

[1884〜1975鳥類学者東京生まれ農林技師として日本の野鳥保護行政尽力し、「博士」として知られた。著「日本鳥類図説」「講話」など。


内田清之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/02 19:37 UTC 版)

内田清之助
人物情報
生誕 (1884-12-01) 1884年12月1日
日本東京都
死没 1975年4月28日(1975-04-28)(90歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 動物学(鳥類学)
研究機関 東京帝国大学
学位 農学博士
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内田 清之助(うちだ せいのすけ、1884年(明治17年)12月1日 - 1975年(昭和50年)4月28日)[1] は、日本鳥類学者

経歴

1884年(明治17年)12月1日、東京都中央区銀座(当時は東京市京橋区)五丁目角のたばこ屋に生まれた[1]府立一中時代の同期には中島董一郎キューピーアヲハタ創業者)らがいた。この中学時代から自然にあこがれ、旧制第一高等学校の二部乙類に入学[2][3]1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学獣医学科に進学、卒業後は鳥類学者となり、東大卒業後副手[4]獣医学[5]

1918年(大正7年)に農商務省によって「狩猟法」の改正がなされ、「農林業上有益な野生鳥獣の保護繁殖と狩猟鳥獣の利用増殖」を目的とした「鳥獣調査事業」が始まり、内田はその総括・指導のため農商務省技師に任ぜられた[4]。その後、農林省鳥獣調査室長などを歴任した[1]。1925年(大正14年)、農学博士東京帝国大学)取得。論文の題は「Studies on amblycerous mallophaga of Japan (日本産隠角羽虱類の研究)」[6]1936年(昭和11年)1月には、文部省からの依頼を受けて鹿児島県出水ツル渡来地マナヅルナベヅルの正確な頭数調査等を行っている[7]

1975年(昭和50年)4月28日、心筋梗塞のため死去[1]。90歳。

家族・親族

心理学者の内田勇三郎は実弟、魚類学者の内田恵太郎は従兄弟にあたる。

著書

  • 『日本鳥類図説』(1913年、警醒社書房)[4]
  • 『鳥類講話』(1917年、裳華房)(1925年、『鳥学講話』となる)[4]
  • 『鳥と旅』(1973年、芸艸堂[4]

論文

関連人物

脚注・文献

  1. ^ a b c d e 朝日新聞(東京)夕刊, 1975年4月30日「内田 清之助氏」
  2. ^ 里見大作. 内田清之助先生と駒場
  3. ^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校,1929年)参照
  4. ^ a b c d e f 唐沢孝一. 3代会頭 内田清之助 UCHIDA Seinosuke. 日本鳥学会誌61(2), 2012. 日本鳥学会100年の歴史14
  5. ^ 内田清之助 1909
  6. ^ 博士論文書誌データベース
  7. ^ 鶴の大群世界一、鳥博士が出水で調査『東京朝日新聞』昭和11年1月24日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p97 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

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