八角墳の意味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:02 UTC 版)
八角墳の意味については、道教を含めた広い意味での古代中国の政治思想において、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想の影響が考えられる。 八角墳は森浩一の提唱によると最終末古墳に含まれる。即位した大王が祭られている可能性を指摘する学者もあるが、奈良県だけではなく東京都多摩市の稲荷塚古墳をはじめ東日本など各地で少数ではあるが確認されていることから、即位した大王だけを祭るために造られている可能性に疑いを持つ学者も多い。 八角墳は7世紀の半ばになると、大王墓のみが営むようになる。現在知られている限りでは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳(現舒明天皇陵)、奈良県高市郡明日香村の野口王墓(現天武・持統陵)、一般に文武天皇陵と考えられている奈良県明日香村中尾山古墳、それに御廟野古墳などが八角形平面の墳丘を持っている。7世紀半ば、日本では初めて大王に固有の型式の陵墓が出現したといえる。これらのほかに、奈良県高市郡高取町の束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜か)、方形墳の上に八角形の墳丘を造っている可能性のある明日香村の岩屋山古墳(斉明天皇陵か)などが八角形墳の可能性を指摘されている。 八角墳は、舒明天皇の墓から始まっていると考えられ、日本の大王の墓に固有の型式の陵墓が考え出されたと捉えることができる。これは、大王を他の有力豪族からも隔絶した支配者とみなし、中央集権国家の樹立を目指すものであったと考えられる。
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