八甲田雪中行軍遭難事件
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八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大の山岳遭難事故である[1]。
注釈
- ^ 小説や映画での行軍競争などは創作である。
- ^ 本来の目的地は田代新湯である。映画「八甲田山」では最後の方に村山伍長がロープウェイに乗るシーンがあるが、彼のモデルとなった村松伍長が実際に発見されたのは田代元湯であり、また彼を含めた生還者全員が八甲田山ロープウェイ敷設前に死去している。
- ^ ちなみに2015年現在、青森県県道40号沿いに第1、第2露営地跡の標識があるが、この間は徒歩で約10分ほどの距離である。
- ^ 映画『八甲田山』(1977年)では、神田大尉(北大路欣也)が「天は…天は我々を見放した」と声を下に絞り出しながら発言している。脚本(橋本忍)では「血を吐くような悲痛な声が静かな疎林の中へ響く」と表現されている。
- ^ 『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)では「神田大尉は雪を踏みしめながら怒鳴った」と記述。
- ^ 余談:2月12日に興津の遺体が発見された際、従卒の軽石三蔵二等卒の遺体が興津に覆いかぶさるように倒れていたという説があり、現場を写したとされる写真も存在する。これは美談として広く喧伝され、『遭難始末』附録の美談集にも「上官を想い供に凍死す」という見出しで取り上げられた(歩兵第五聯隊 1902b, p. 3)。ところが実際には、興津と軽石の遺体はそれぞれ別の捜索隊が異なる場所で発見しており、興津に覆いかぶさっていたのは軽石ではなく吉田春松一等卒だった。問題の写真も現場で撮影したものではなく、遺体を第8哨所に収容したのちに演出を加えて撮影した写真だったことが判明している(川口 2001, pp. 200–204)。
- ^ のちに倉石は「佐藤は連隊に連絡せんとて行きしまま行方不明」と述べている。
- ^ 『イソップ寓話』の翻訳等で名高い。
- ^ 渡部が校長だったことがある。
- ^ 防衛研究所図書館所蔵。
- ^ 旭川では1月25日零下41.0℃を記録した。帯広では1月26日に同38.2℃を記録し、第2位となった。
- ^ 1月30日付東奥日報号外において、従軍した同紙記者の東海勇三郎が1月28日の行軍中に銃および凍死体を見たと記している。ただし同紙は後に訂正記事を掲載した。
- ^ 映画では案内人に敬礼をする等、一定の敬意を払っていたかのような描写があるが、あくまで映画における演出である。
出典
- ^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難の過程と原因 2022, p. 70
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 5.
- ^ a b c d e f g 「八甲田山雪中行軍から学ぶ組織の在り方」 - 青森市HP (PDF) (2015年2月12日時点のアーカイブ)
- ^ 川口 2001, p. 260.
- ^ 川道 2017, p. 76.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 7–9
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 15
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 9–10
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 10–11
- ^ 小笠原 1974, pp. 67–77
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 26–27.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 25–27
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 27.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 27–28
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 29
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 33.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902b, pp. 4–5.
- ^ 「名言巡礼 天は我々を見放した 雪中行軍 絞り出す無念」読売新聞2013年11月3日日曜版。
- ^ 小笠原 1970
- ^ 小笠原 1974, p. 213
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 38–39
- ^ a b 歩兵第五聯隊 1902, p. 40
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 41
- ^ a b c d e f 佐藤 1902, p. 24-25
- ^ 佐藤 1902, p. 19
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 51.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 42
- ^ a b 佐藤 1902, p. 15-17
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 57.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 68.
- ^ 北辰日報編輯部 1902, pp. 46–48
- ^ 百足 1902, p. 115
- ^ 佐藤 1902, pp. 26–34
- ^ 佐藤 1902, pp. 39–40
- ^ 佐藤 1902, p. 38
- ^ 『樋口雄彦 沼津兵学校資業生成澤知行とその資料 - 沼津市博物館紀要 45 -』沼津市歴史民俗資料館・沼津市明治史料館、3月31日、1-40頁。
- ^ 『成澤良一:『山口少佐、その父と兄と・・・(成澤良作、知行父子の幕末から昭和まで)』ー青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館・内部資料=未刊行ー』青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館 (内部資料=未公刊)、9月30日 2020。
- ^ 明治三十五年凍傷患者治療報告より。[要文献特定詳細情報]
- ^ 川口 2001
- ^ “毒物及び劇物取締法 別表第二”. 総務省. 2019年6月30日閲覧。
- ^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難の過程と原因 2022, p. 59-62
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 48
- ^ 雪中行軍遭難二つの疑問 2023, p. 54-60
- ^ 「陸奥の吹雪」による。(川口 2001, p. 18)
- ^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難の過程と原因 2022, p. 56
- ^ 川道 2017, pp. 84–115.
- ^ a b 苫米地 1930
- ^ 佐藤 1902, p. 45
- ^ 川口 2014, pp. 153–154
- ^ 十和田市 1976
- ^ 川道 2017, pp. 137–139.
- ^ 川村邦光「戦死者のゆくえ」に収録された丸山泰明の論文 p139-172(丸山泰明 & 2010-05)
- ^ 伊藤 2018, p. 不明[要ページ番号].
- ^ “八甲田山行軍兵の写真発見 遭難、凍傷手術前の5人”. 日本経済新聞 (2012年7月3日). 2017年8月8日閲覧。
- ^ “「八甲田」生還の報告書”. 読売新聞. (2012年4月12日). オリジナルの2012年4月18日時点におけるアーカイブ。
- ^ 秋元宏宣「銅像茶屋閉店の危機」2019年付5月15日『東奥日報』
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