依頼主ヨリス・ファン・デル・パーレ
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「ファン・デル・パーレの聖母子」の記事における「依頼主ヨリス・ファン・デル・パーレ」の解説
『ファン・デル・パーレの聖母子』の依頼主であるヨリス・ファン・デル・パーレは1370年ごろにブルッヘで生まれた。聖職者としてローマ教皇の書記官を務め、経済的に成功して故郷のブルッヘに戻ったのは1425年のことだった。そして、帰還後すぐにブルッヘの聖ドナトゥス協同教会 で参事会員の聖職禄を得ている。その後、1434年に病にかかったため参事会員の職務を果たすことが困難となった。それまでの功績を教会から認められ、より負担の軽い礼拝堂付きのチャプレンの職を授けられたファン・デル・パーレは、『ファン・デル・パーレの聖母子』の制作をヤン・ファン・エイクに依頼した。『ファン・デル・パーレの聖母子』の、一見すると額縁のように描かれた縁飾りの最下部には「この教会の参事会員ヨリス・ファン・デル・パーレが、この作品をヤン・ファン・エイクに描かせた。1434年から二回にわたりチャプレンの職を務めた。彼(ヤン・ファン・エイク)が完成させたのは1436年のことだった」という献辞がある。 『ファン・デル・パーレの聖母子』が聖ドナトゥス協同教会に献納されたのは完成直後の1436年か、ファン・デル・パーレが死去した1443年かのどちらかである。その後、建物が解体された1779年まで、聖ドナトゥス協同教会が所有していた。この作品が飾られていた場所としてもっとも可能性が高いのは教会身廊の壁である。これは、この身廊から続く聖ペトロと聖パウロの祭壇が、ファン・デル・パーレとその一族の記念ミサのときに使用されていた場所だったためとされる。『ファン・デル・パーレの聖母子』が聖ドナトゥス協同教会の主祭壇に置かれたのは、1566年のイコノクラスム後のことだった。
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