伴盛陰とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 伴盛陰の意味・解説 

伴盛陰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 05:43 UTC 版)

 
伴 盛陰
時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 勝永[1]
官位 中務丞[2]、中務少輔[3]
主君 今川義元松井忠次徳川家康
氏族 伴氏[3]
父母 父:伴資盛[3]
兄弟 盛陰盛兼[3]
テンプレートを表示

伴 盛陰(ばん もりかげ)は、戦国時代から安土桃山時代武将徳川氏の家臣。

概要

古代豪族大伴氏の末裔で、父の代までは近江国に住んで足利将軍家に仕えた。当初今川義元に仕えたともいうが、その後は弟の盛兼とともに徳川家康の家臣・松井忠次に仕えた。忠次は盛陰・盛兼の兄弟を側近に取り立てて厚遇した[3][4]永禄5年(1562年上ノ郷城攻めでは同僚の石原三郎左衛門と共謀し、伴一族はその攻略と城主の二子・鵜殿氏長氏次兄弟を捕縛するのに功績があった[注釈 1]。この功によって鵜殿氏旧領の西郡に120貫を与えられている[3][5][6]。また本多忠勝の指揮で、同僚の都筑重常とともに幡豆郡小笠原安元広重の帰順を取り扱っている[7]

その後は家康の直臣としての活動が見られるようになる。永禄7年(1564年酒井忠次に従い、吉田城主・大原資良を説得して開城させた[3][8]。永禄11年(1568年遠江侵攻では小笠原安元とともに高天神城主の小笠原氏助を味方に引き入れた[3]元亀元年(1570年)家康の異父弟で当時武田氏の元にいた松平康俊甲斐より脱出させるのに功があった[9]天正2年(1574年)遠江磐田郡馬伏塚・引佐郡気賀を加増されて6,000石を領した[3]

脚注

注釈

  1. ^ 伴資定が城主の鵜殿長照を討ち取り、伴資綱がその子息らを生け捕りにしたという[2]

出典

  1. ^ 『小浜市史』, p. 97.
  2. ^ a b 『小浜市史』, p. 291.
  3. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』, p. 376.
  4. ^ 『石川正西聞見集』, p. 18.
  5. ^ 『石川正西聞見集』, p. 19.
  6. ^ 『石川正西聞見集』, pp. 注解 2-3.
  7. ^ 『岡崎市史』, p. 401.
  8. ^ 『類聚名物考』, p. 第1冊 627.
  9. ^ 『類聚名物考』, pp. 第1冊 627-628.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  伴盛陰のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伴盛陰」の関連用語

1
伴資家 百科事典
18% |||||

2
伴資綱 百科事典
12% |||||

伴盛陰のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伴盛陰のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの伴盛陰 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS