伴資家とは? わかりやすく解説

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伴資家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/11 03:54 UTC 版)

 
伴 資家
時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
別名 資之[1]、太郎左衛門[2]
主君 織田信長
氏族 伴氏[2]
吉田資次[1]
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伴 資家(ばん すけいえ)は、戦国時代から安土桃山時代武士

概要

三河国にルーツを持つ伴氏の末裔で、中世には近江国甲賀郡に住んだ一族。永禄5年(1562年)三河の戦国大名松平元康上ノ郷城を攻撃した際、同家臣の酒井正親松井忠次の招聘を受けて、伴盛陰資定資綱らとともに三河に下向してこの戦いに加わった。伴党は資定が城主・鵜殿長照を討ち取る、資綱が長照の二子を捕縛するなどの功を挙げている[2]

その後は畿内に進出した織田信長に仕えた。天正10年(1582年本能寺の変の際には信長に近侍しており、矢代勝介・伴正林・村田吉五とともに本能寺の厩舎より打って出て明智光秀勢と戦い、いずれも討ち死にした[3][4]。子孫は吉田氏・千田氏と改め、紀州徳川家浅野氏に仕えた[5]

出典

  1. ^ a b 『南紀徳川史』, p. 287.
  2. ^ a b c 『小浜市史』, p. 97.
  3. ^ 『甲賀郡誌』, p. 304.
  4. ^ 『信長公記』, p. 382-383.
  5. ^ 『南紀徳川史』, pp. 287–288.

参考文献

  • 信堀内 編『南紀徳川史』 5巻、名著出版、1971年。 
  • 滋賀県甲賀郡教育会 編『甲賀郡誌』 上巻、弘文堂、1979年。 
  • 小浜市史編纂員会 編『小浜市史』 藩政史料編2、小浜市、1985年。 
  • 信長公記桑田忠親(校注)、人物往来社〈戦国史料叢書〉、1965年。 



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