伝説の五右衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 08:39 UTC 版)
出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。 丹後国の伊久知城を本拠とした豪族丹後石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正10年(1582年)、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の謀略を引き受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門の次男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。 また一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。
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