伊藤欽亮の時代
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1906年(明治39年)、陸が病んで、時事新報から日本銀行への職歴を持つ伊藤欽亮に社を譲った。この人事で13人が退社し、12人が政教社へ移った。伊藤が社長に就任すると、新聞『日本』は性格を変え、立憲政友会からの支援を受けた保守系新聞となる。一方、分離した政教社の雑誌『日本人』を主宰する立場になった三宅は、『日本人』誌が『日本』紙の伝統も受け継ぐとして、『日本及日本人』と改題。『日本新聞社』が『日本』紙を発行し、政教社が『日本及日本人』誌を刊行する形になった。 1914年(大正3年)末、東京・神田雉子町の日本新聞社社屋が火事で焼失。事業継続が不可能になって初代『日本』紙は廃刊した。発行部数は、発足時に8500、日清戦争当時が最高で約20000。経営は苦しかった。なおこの頃には政教社の事務所は独立しており、『日本及日本人』誌は発行を続けた。
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