任百経
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 17:14 UTC 版)
![]() | 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 |
任百経 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 임백경 |
漢字: | 任百經 |
発音: | イム・ペッキョン |
任 百経(イム・ペッキョン、朝: 임백경、1800年 - 1864年)は、李氏朝鮮の政治家。本貫は豊川任氏。字は文卿、号は荷漪。
生涯
1827年に科挙の文科に及第し、1847年に従二品に昇進し、義州府尹、都承旨などを歴任し、1857年に正二品に昇進、刑曹判書、水原府留守、進賀兼謝恩使を歴任し、1864年に右議政に就任し、在任中に死去した。
朋党政治においては北人派に属したが、議政が選出されるのは1648年に南以雄が左議政を退任して以来のことで、異例の人事であった。
参考文献
- 任百経のページへのリンク