代宗・徳宗期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 22:12 UTC 版)
代宗の時代は、藩鎮に対して強い態度を取らなかった。 代宗を継いだ徳宗は藩鎮の抑圧を目標とした。両税法により藩鎮の恣意的な財政運営に制限を加え、また781年に成徳の李宝臣が死去した際には、子の李惟岳による世襲の求めを認可しなかった。反発した成徳(李惟岳)・天雄(田悦)・平盧(李納)・山南東道(梁崇義)が連合して乱を起こすが、徳宗は禁軍(近衛軍)と盧龍などの他藩鎮軍を動員して討伐を行い、梁崇義を滅ぼし李惟岳を捕らえた。 徳宗の強硬姿勢を見た他の藩鎮は自らの地位を失うことを恐れ、初めは官軍に与していた盧龍軍なども離反した。783年に乱が起こり、元幽州節度使の朱泚を擁立して長安を占拠した。徳宗は奉天(現在の陝西省咸陽市乾県)に逃れる。 徳宗は事態収拾のため藩鎮側の地位を保全して罪を赦し、疲弊した藩鎮の多くはこれを受け容れた。残る盧龍軍や淮南西道・長安を占拠した朱泚軍も786年に鎮圧する。799年、淮南西道の李希烈を殺害し実権を握った陳仙奇を殺害して淮南西道節度使に就いた呉少誠が乱を起こすが、1年余りの戦いの後に罪を赦され乱を収めた。
※この「代宗・徳宗期」の解説は、「藩鎮」の解説の一部です。
「代宗・徳宗期」を含む「藩鎮」の記事については、「藩鎮」の概要を参照ください。
- 代宗徳宗期のページへのリンク