他の藤原秀郷流の佐野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 00:02 UTC 版)
藤原秀郷流の旗本佐野氏 下野佐野一族とは秀郷を祖とすることのみ共通し、系図上での繋がりは皆無である。 佐野半四郎政重の家系 本国は美濃国。森忠政に仕えた半四郎政重が祖。それ以前は不詳。子の政秀が家康に仕え、旗本となったが、直系および分家1家が無嗣断絶し、分家1家が幕末に至った。(『寛政譜』) 佐野与八郎正安の家系 三河譜代の家で、戦国時代に三河国下和田村を領して松平清康に仕えた佐野与八郎正安を祖とする。正安以前は不詳である(太田亮『姓氏家系大辞典』、『寛政譜』)。 分家を含め旗本に7家あった。のち分家1家が無嗣断絶した。また分家1家は天保4年(1784年)に佐野政言が田沼意次の子息、若年寄田沼意知刃傷事件を引き起こし改易された。ただし三田村鳶魚の日記によると、江戸末期、与八郎正安系の分家の者に政言の家の再興を認める沙汰が下りたが、幕末の混乱で再興はならなかったという(山田忠雄「佐野政言切腹余話」『史學』57巻4号、三田史学会、1988年)。
※この「他の藤原秀郷流の佐野氏」の解説は、「佐野氏」の解説の一部です。
「他の藤原秀郷流の佐野氏」を含む「佐野氏」の記事については、「佐野氏」の概要を参照ください。
- 他の藤原秀郷流の佐野氏のページへのリンク