今村重長とは? わかりやすく解説

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今村重長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/25 16:09 UTC 版)

 
今村重長
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 弘治3年(1557年[注釈 1][2]
死没 寛永4年5月5日1627年6月18日[2][1]
別名 桁之助、九郎兵衛、彦兵衛[3][1]
戒名 了心院法順[1]
墓所 善立寺[3][1]
幕府 江戸幕府 目付下田奉行
主君 徳川家康秀忠
氏族 藤原秀郷流河村氏族今村氏[3][1]
父母 父:今村勝長[3][4]
兄弟 重長、正信、掃部、大久保忠弘の妻、夏目信次の妻[5][1]
布施重直の娘、平岩左馬助の娘[2]
正長、永見重成、伝右衛門、土屋勝正の妻[2][1]
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今村 重長(いまむら しげなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将江戸幕府旗本

略歴

徳川氏中山譜代の家に生まれる。幼少期より徳川家康に仕えて御膳番を務める。天正3年(1575年長篠の戦いで武功を立てる。同年に松平信康の家臣だった黒柳甚蔵が反乱を起こすと、これを捕らえる功績があった[注釈 2]。天正12年(1584年長久手の戦いでは二番槍の武功を挙げた。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いに従軍。その後は徳川秀忠使番となり、慶長19年(1614年大坂冬の陣に従軍。翌年の夏の陣では首1級を挙げ、井伊直孝安藤重信に従って落城後の大坂城に入城した。元和2年(1616年目付、元和3年(1617年下田奉行を歴任。知行伊豆国賀茂郡に2,200石を領した。寛永4年(1627年)71歳で病死[5][1]

脚注

注釈

  1. ^ 断家譜』は弘治2年(1556年)生まれとする[1]
  2. ^ 断家譜』は天正2年(1574年)の事とする[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『断家譜』, p. 49.
  2. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』, p. 380.
  3. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』, p. 379.
  4. ^ 『断家譜』, pp. 48–49.
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, pp. 379–380.

参考文献




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