井出正章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 17:39 UTC 版)
井出 正章(いで まさあき、天保14年(1843年)– 明治32年(1899年)1月23日[1])は、土佐藩出身の医師・軍人。幕末には脱藩し玉川壮吉として活躍した。維新後は陸軍で累進し、陸軍監督監[2](少将相当官)、従三位勲三等となった。錦鶏間祗候。養子に後備陸軍主計総監・俳人としても知られる井出治がいる。[3][4]
概要
井出正章は、土佐国檮原(現・高知県檮原町)の出身で、父は医師の玉川英俊。もとは玉川壮吉と称した。改姓については、『新古今和歌集』の歌「駒とめて なほ水かはむ 山吹の 花の露添う 井出の玉川」にちなみ、玉川から井出へ改めたと推測される[5]。
元治元年(1864年)6月5日深夜、壮吉は土佐の長老那須俊平を訪ね、翌6日早朝に両名で脱藩し国境を越えた。伊予の吉田(現・愛媛県宇和島市付近)を経て、同年10月3日に三田尻に到着した[3]。その後、長州藩の挙兵上洛に呼応して諸藩脱藩浪士を中心に組成された合力部隊忠勇隊に参加し、海路で京師に向かった航程で痘を病み戦闘参加はならなかったと伝えられる一方、実際には山崎まで到達していたことが判明している。同行の那須俊平は忠勇隊第二伍々長として禁門の変に参戦し、鷹司邸後門で討死した[3]。
壮吉は一時長州藩に帰ったのち、討幕軍に従い各地で転戦して功績を挙げ、維新後に氏名を井出正章と改め、籍を兵庫県に移す。やがて陸軍で累進し、陸軍監督監となり、従三位勲三等に叙せられた[3]。また『陸軍省官員録』明治8年(1875年)に、「兵庫県氏族・六等出仕」としての記載が見える[6]。
明治9年(1876年)には、大阪鎮台司令官三好重臣が揖斐章・厚東武直・井出正章・高嶋信茂・池田安正・笠貞継・佐々木忠戬らと会同し、博交社という学舎を設けた[3]。
明治22年(1889年)の金峰山地震(熊本地震)に際しては、井出は第6師団監督部長として熊本の被害視察・報告に関与した。熊本城の復旧費が莫大に上る中で、井出は大山巌陸軍大臣に対し、「西南戦争における熊本城の戦功と、加藤氏の築城計画の意義」を引き、保存費の金額のために名城の旧跡を失うべきではない旨を進言し、熊本城保存の方針に資する発言を行っている(第六師団『震災ニ関スル諸報告』所載)[7]。同年10月、第3師団監督部長に転任[8]。
1898年(明治31年)8月25日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]。1899年に死去した[3]。
脚注
- ^ 『日本陸軍将官辞典』84頁。
- ^ a b 『官報』第4549号、明治31年8月27日。
- ^ a b c d e f 土佐史談会 & 1993年, p. 77.
- ^ 大空社 & 1993年, p. 33.
- ^ 土佐史談会 & 1983年, p. 23.
- ^ 陸軍省 & 1875年.
- ^ 第六師団 & 1889年.
- ^ 『官報』第1888号、明治22年10月12日。
参考文献
- 井出正章のページへのリンク