中村党の勢力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/13 08:37 UTC 版)
「中村氏 (相模国)」の記事における「中村党の勢力拡大」の解説
平宗平は相模国余綾郡中村荘(現・神奈川県小田原市中村原、中井町中村付近)にちなんで中村荘司と称した。中村氏の実質的な始まりだが、一族も発展することとなる。 嫡子の重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平は土肥氏を称し、その息子の遠平は小早川氏を称した。三男の宗遠は土屋氏を、四男の友平は二宮氏を、五男の頼平は堺氏をそれぞれ称した。 かくして中村党が形成されたのだが、本宗である中村氏は振るわなかったようで、後に土肥・土屋一族がその中核を占めるようになる。 また、宗平の娘である桂御前は、同じく相模国の豪族である三浦党の岡崎義実に嫁ぎ、義忠・義清兄弟をもうけている。この内、義忠は佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり、土屋氏を称している。 もう一人の宗平の娘である満江御前は伊豆国の伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東(久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。 宗平の娘と祐親の間には、河津祐泰、伊東祐清、八重姫、万劫御前らが生まれたが、この内、万劫御前は最初は工藤祐経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。河津祐泰は曾我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。
※この「中村党の勢力拡大」の解説は、「中村氏 (相模国)」の解説の一部です。
「中村党の勢力拡大」を含む「中村氏 (相模国)」の記事については、「中村氏 (相模国)」の概要を参照ください。
- 中村党の勢力拡大のページへのリンク