中国の防人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 13:58 UTC 版)
738年完成の大唐六典では「辺要置防人為鎮守」(辺地の防衛のために防人を置く)とされている。防人の数は担当地域の規模によって定められており、上鎮では500人、中鎮では300人、下鎮では300人以下、上戍は50人、中戍は30人、下戍は30人以下とされた。唐代初期には全国で上鎮が20箇所、中鎮が90箇所、下鎮が135箇所、上戍が30箇所、中戍が86箇所、下戍が235箇所との記録があり、合計すると7-8万人の兵力となる。兵士は農村から徴兵された他、犯罪者や無住者など所払いの人達も送られた。任期は3年だが、延長される事もしばしばあった。食料・武器は自弁であった。なお、開元、天宝年間(713年-756年)になると、募集された職業軍人で構成されるようになった。
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