与謝野晶子と桂月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 18:30 UTC 版)
1904年(明治37年)9月に『明星』に発表された与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難している。これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と弁明している。 現在、大町桂月の評価が低いのは、こうした当時としては「常識的」で「多数派」であった発言が、後年の目から見れば国粋主義的に写ることから来ている面もある。しかし、この騒動以前は桂月は晶子の才能を認めており、親交も深かった歌人であった。晶子は57歳で病没した桂月に「横浜貿易新報(現在の神奈川新聞)」に追憶をよせている。
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