与論島でのリン鉱石探査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
恒藤がまだラサ島燐鉱株式会社の社長を務めていた1927年12月、恒藤のもとを一人の老人が訪れ、与論島産のリン鉱石を示しながら起業の相談をした。恒藤は早速調査を行わせたが、結果はあまり良好なものではなかった。しかし恒藤は1928年3月、東京帝大農芸化学教室の南礼蔵を伴って与論島のリン鉱石調査に赴いた。恒藤と知り合った南は、そのリン鉱石に対する研究熱心な姿勢に驚いている。 恒藤と南は島内を隈なく調査し、200個余りの標本を持ち帰った。分析を担当した南は、恒藤からの矢のような催促を受けて昼夜兼行で分析を行った。その後も調査を続け、恒藤のラサ島燐鉱株式会社退職後、1930年5月には与論島でのリン鉱山開発を目的とした殖産資源株式会社を立ち上げ、社長に就任する。しかし調査の結果、与論島のリン鉱石は採算に合わないと判断され、1932年4月に殖産資源株式会社は解散した。
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