下向伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 14:52 UTC 版)
康仁親王については、南朝方荘園の入野(静岡県浜松市)に下向し龍雲寺を興し、そこに落ち着いたという伝承が存在し、親王の屋敷跡・墓所・真影とされるものが寺内に伝存している。ただ、親王が京都付近で没したことは『園太暦』に記されているので、伝承には疑問も残るが、龍雲寺創建後に騒乱の落ち着いた後に京都に戻ったとも考えられる。 龍雲寺古文書では康仁親王は次男を出家させ京都相国寺を創建した普明国師の元で修行をさせる。親王は当時南朝荘園だった入野に下向し御館を建立、四百余石を所領し、さらに御館横に祈祷所を建立し開基となる。この時、普明国師を勧請開山、次男(明庵察公)を実質初代住職として迎える。 康仁親王は正平10年に36歳で亡くなる。龍雲寺境内地には御墳墓五輪塔が残っている。康仁親王が京都で没した事が事実であれば開山後京都へ戻り没し、遺骨の一部か全てかを龍雲寺に運んだと考えられる。その後、木寺宮家は静覚入道親王まで続くが、その後の赤津中務少輔に至までの二代の方が不明である。赤津中務少輔の次男(弟説あり)円堂瑞椿は龍雲寺住持についている。
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