三田藩・綾部藩時代
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嘉永3年(1850年)、三田藩の家臣で180石取りの星崎貞幹の次男として藩内の屋敷町(現・兵庫県三田市)で生まれた。幼名は貞次郎。1860年(万延元年)に母・龍が亡くなるが、新藩主・九鬼隆義(前年に綾部九鬼家から養子入りして三田九鬼家を継いだ)の斡旋で、跡継ぎを探していた綾部藩家老・九鬼隆周の養子となる(隆周の家系は三田・綾部両藩主家と同族で、綾部藩の一門家老家である)。慶応元年(1866年)に家督を継ぎ九鬼家の当主となった。 三田藩の藩政改革に携わっていた福澤諭吉が大阪江戸堀の藩屋敷で饗応された際に同席し、面識を得る。明治2年(1869年)5月19日に九鬼隆義と共に上京した際に福澤を再訪し、藩の推薦もあって慶應義塾(後の慶應義塾大学)への入塾を許可された。同年11月、綾部藩の洋式練兵中隊長、権少参事などの職に就き、山陰鎮撫総督として丹波街道の塚原口を受け持った。
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