三の丸、櫓台、土塁、堀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 16:04 UTC 版)
三の丸の規模は10ヘクタールあり、掘立柱建物の遺構が数多く検出されているので、下級武士が生活していたと推察されている。またこの北東部分に東西約15m、南北約30m、高さ8mの土塁跡の上に馬出し状の櫓があったと推定されている。1980年の発掘調査では、櫓が推定される土塁から小規模の建物跡、陶磁器、古銭が出土している。石川に面した部分にあり、物見、攻撃櫓、武器庫、虎口などの防御施設がおかれていたと推定されている。また高屋城の土塁は礫と粘土を交互に積み重ねて強固に築き上げられており、その外側には水堀を巡らし、数々の功城戦から堅固な縄張りへ、改修が積み重なっていったと考えられている。 交通の要所である東高野街道を城内を南北に通るように築城されたと思われるが、これにより城としての防御能力はいくばくかの低下があったと考えられている。 ただ三の丸には別説もある。管轄自治体の羽曳野市発行の『畠山家記』には三の丸の地域を「旧市旧屋敷」と書かれている事や、城の規模が当時と比較してもあまりに不自然である事等から高屋城ではないとする向きもある。
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