ヴォルィーニ公国からの分離説とは? わかりやすく解説

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ヴォルィーニ公国からの分離説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 08:24 UTC 版)

グロドノ公国」の記事における「ヴォルィーニ公国からの分離説」の解説

初代グロドノ公フセヴォロドコの父については、成立の古いルーシ年代記レートピシ)には言及がない。17世紀成立した『グストィニャ年代記(ru)』に、「アガフィヤの夫、チェルニゴフ公フセヴォロド・ダヴィドヴィチ」という記述があり、帝政ロシア歴史学者ヴァシリー・タティーシチェフ(ru)は、始め、フセヴォロドコをダヴィド・スヴャトスラヴィチの子フセヴォロド・ダヴィドヴィチ)と同一人物とした。また、この説ではグロドノチェルニゴフ公国内の都市(現ウクライナ・ホロドニャ(ru)等)とみなされた。しかしタティーシチェフ自身が後にこの説を修正し、フセヴォロドコの父はヴォルィーニ公国領有したダヴィド・イーゴレヴィチであるとした。 タティーシチェフよりやや後世歴史学者ニコライ・カラムジン、セルゲイ・ソロヴィヨーフ(ru)もこの説に反を唱えずダヴィド・イーゴレヴィチの子とする説が容認されていった。ただし、カラムジンは、ダヴィド・イーゴレヴィチ所領プリピャチ川以南であり、グロドノ(現フロドナ)を公国首都とすることには意を唱えたまた、プリピャチ川流域首都置かれるならば、ピンスクトゥーロフ(現トゥーラウ)、ベレスチエ(現ブレスト)等の都市であったはずである(ただし当時はスヴャトポルク・イジャスラヴィチの所領である)と述べている。 一方ソビエト連邦期のニコライ・ヴォロニン(ru)は、ダヴィド・イーゴレヴィチの子とする説は否認しながらも、グロドノフロドナ)を公国首都みなしている。

※この「ヴォルィーニ公国からの分離説」の解説は、「グロドノ公国」の解説の一部です。
「ヴォルィーニ公国からの分離説」を含む「グロドノ公国」の記事については、「グロドノ公国」の概要を参照ください。

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