ロマン・マチエイェフスキ
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ロマン・マチエイェフスキ Roman Maciejewski |
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ロマン・マチエイェフスキ
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基本情報 | |
生誕 | 1910年2月28日![]() |
出身地 | ![]() |
死没 | 1998年4月30日(88歳没)![]() |
学歴 | シュテルン音楽院、ワルシャワ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 |
ロマン・マチエイェフスキ(Roman Maciejewski、1910年2月28日 - 1998年4月30日)は、ポーランド人の作曲家[1]。
経歴
幼少期はヴァイオリニストであった母親のブロニスワワ・マチエイェフスキが、音楽教師として彼にピアノを教えた[2]。ベルリン・シュテルン音楽院に学び、その後はポズナニ音楽院でスタニスワフ・ヴィエホヴィツとカジミエシュ・シコルスキに、さらにワルシャワ音楽院で引き続きシコルスキに師事した。初期にカロル・シマノフスキから高い評価を受けている。1934年にパリに行ってナディア・ブーランジェに入門した。そのまま祖国ポーランドには帰らず、諸国を渡り歩いた。1938年までフランスに滞在した後、1939年までイギリスに、1951年にスウェーデンに、1977年までアメリカ合衆国に暮らし、その後は没年まで再度スウェーデンに落ち着いた。
ピアノ曲『マズルカ』や合唱曲『クルピエ地方の歌』が示しているように、初期作品はシマノフスキ後期の作曲様式に影響されていた。第二次世界大戦の悲劇と、最初のスウェーデン滞在中の病苦とにより、作曲者自身の人柄にも深刻な変化が現れ、作風もそれに大きく影響された。それ以降は大作の創造に全身全霊を傾けた。それゆえ巨大な『死者のためのミサ曲(レクィエム)』(Missa pro defunctis. Requiem)は、完成に1945年から1959年までの歳月を費やし、戦争や犯罪、圧政のすべての犠牲者に捧げられた。初演は1960年に、第4回「ワルシャワの秋」において実行された。
主要作品一覧
- 無伴奏合唱曲『クルピエ地方の歌』(1929年)
- ソプラノと管弦楽のための『ビリティスの歌』(原作ピエール・ルイス、訳詩レオポルド・スタッフ.1935年)
- 2台ピアノのための協奏曲(1936年)
- ピアノと管弦楽のための『子守唄とアレグロ・コンチェルタンテ』(1944年)
- 4人の独唱者と合唱、管弦楽のための『死者のためのミサ曲(レクィエム)』 (1945年 - 59年)
- フルートとチェレスタ、ギターのための『夜想曲』(1952年)
- 合唱とオルガンのための『ミサ・ブレヴィス』(Missa brevis, 1964年)
- 合唱とオルガンのための『復活祭ミサ曲』(1966年)
このほかに約60曲のマズルカなどのピアノ曲と、室内楽や劇付随音楽も遺している。
脚注
- ^ “Roman Maciejewski” (英語). Polish Music Center. 2025年8月8日閲覧。
- ^ “Meet forgotten Polish pianist Roman Maciejewski” (英語). Interlude (2021年8月20日). 2022年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月8日閲覧。
固有名詞の分類
近現代の作曲家 |
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